(1)第七官界彷徨

 昭和初年ごろの東京に、尾崎翠という女性作家がいたことを知っているのは、日本の近代文学や小説によほど興味のある人だけかもしれません。

 当時30代半ばであった彼女は、林芙美子などよりも年上だったのですが、寡作で地味な存在で、その後すぐに36歳で筆を折って郷里の鳥取に帰ってしまったため、活動時期も短く、ほとんど一般に知られないまま長い間忘れられていました。

 けれども、「第七官界彷徨」(昭6、1931)を始めとする彼女の小説の世界は、今読んでも古い感じがしない、不思議なみずみずしさ、独特のユーモアセンスがあって引き込まれます。「女人芸術」という長谷川時雨の出していた雑誌に連載していた映画エッセイは、たぶん日本最初期の映画評論のひとつではないでしょうか。「銀幕」と呼ぶにふさわしい、モノクロームの映像がたわむれる映画館の闇の中、白昼夢のようなドイツ表現主義映画、チャップリンの喜劇に魅せられていた尾崎翠は、大正期の自由な文化の名残りを受け、やがて急速に戦時体制に移行してゆく昭和初期の、いわゆるモダン都市・東京に生息しえた最後の独身モダン・ガールの一人だったのかもしれません。

 江戸の面影を色濃く残していた明治・大正時代の東京の風景は、1923年の関東大震災を境にガラリと変化します。経済成長の著しかった大正時代はいつしか遠のき、1929年の世界大恐慌の影響はすぐに日本にも及んできていました。それでも、昭和初年の10年間ほどは、東京には震災後の復興のため新しい建物が次々と建てられ、欧米の流行もそれほど時差なく入ってくる、いわゆる昭和初期文化の繁栄の時代。やがて戦争に巻き込まれ時代の闇に飲み込まれる直前の、エアポケットのような一時期に咲いた、空中の幻のごとき白い清楚な花、とでも例えればよいのでしょうか。前世紀前半、70年以上も前にこれほど現代に通じる感覚があったことに驚かされますが、それがしばらく繋がりを切られ、時代の表面から消えていたのは残念に思われます。

 「第七官界彷徨」は、少女の夢のようなロマン的・感傷的雰囲気と、奇妙にリアルな細部描写、ユーモア感覚が他に類例を見ない、実に魅力的な作品だと思います。都会の一軒屋を借りて、3人の奇人めいた兄たちと同居する女の子の、浮き世離れしつつも妙に生活感のある日常の、夢ともうつつともつかない感覚。ユーモアを含んだ感傷的で古風な恋愛の話。・・・・農学を研究する一人の兄の部屋に作られた実験用のミニチュアの苔の森、部屋に漂う「こやし」の匂い、掃除をしながらいつしか眠りこむ妹の眼前に苔の湿地がいきなり森林の大きさに広がって見える、そういう入眠幻覚のような境の感覚を、表題の「第七官」は表しています。

 ますます厳しさを増していったこの時代は、内気で地味な独身30代の女性作家の存在を許してはおかず、尾崎翠はやがて心身の限界に達して郷里に帰ることになります。その後はからりとした男っぽい気性の独身の叔母として甥や姪の面倒を見ながら、ずっと小説を書くことはありませんでした。

 けれども、昭和7年当時、彼女よりずっと若かった花田清輝らの人たちが尾崎翠の作品を読んで覚えていて、40年近くたった1968年に作品の再録の知らせが届きます。作品集「アップルパイの午後」が出たのはその3年後ですが、それを待たずして彼女は亡くなっています。1971年6月、尾崎翠は74歳でした。


 
 

(2)途上にて

 尾崎翠は近代日本文学史の中でその時代数少ない女性作家の一人ということになりますが、彼女の場合、この作家という仕事は今の一般の感覚でいう生計のための「仕事」としては成立していなかったでしょう。近代最初の女性作家として有名な樋口一葉でさえ、生前ついに小説を書くことで生計をたてることはできなかったし、いわゆる職業作家としては、明治時代の最後、大正初年にベストセラーを書くことができた田村俊子が最初になります。その田村俊子も、活動したのはほんの数年で、行き詰まりカナダに行ってしまい、その後は伝説の作家としてこれという新作は書くことがありませんでした。

 尾崎翠が執筆していた「女人芸術」という雑誌も、長谷川時雨が夫の三上がたまたま事業に成功し、資金を気前良く渡されたために、女性の作家を育てるという目的で自主的に作ったものなので、採算はもともと度外視していたものでしょう。平塚雷鳥が出した「青鞜」も、彼女が父親の資金(彼女の嫁入り資金)で始めた、やはり今でいえばボランティア的な活動でした。評判になり売れたのは数号というところで、これだけ歴史上で有名なのに、実は青鞜が活動していた期間は5年弱(1911ー1916)通巻52号と短く、また、平塚雷鳥が編集していたのも最初の数年だけでした。

 というわけで、こういった雑誌では原稿料というのはまず気持ちだけ、というところで、それで生活できた作家というのは、現在有名な人でもほとんどいなかったでしょう。寡作で生前著書を出すこともなかった尾崎翠も、もちろん生計は他でたてていた、というより、親兄弟に頼らざるを得なかったことと思います。

 とはいえ彼女は林芙美子などからは先輩として頼りにされていて、昭和6、7年当時は新宿下落合の借家ですぐ近所に住んでいました。尾崎翠は山陰出身者らしく地味で内気な恥ずかしがりの性格で、林芙美子のようにアグレッシブなところはなかったようです。シャイでぶっきらぼうなところはあるけれどもサバサバした男っぽい姉御肌の気質でもあり、家事も得意だったので、林芙美子はそういう面でも彼女に頼っていたと言われます。まだ無名のころの若い林芙美子の方から、尾崎翠の人柄を慕って訪ねて来たのが交友の始まりでした。

 「第七官界彷徨」執筆中の昭和5年ごろには、朝から晩まで貸家の2階にある書斎で座りっぱなしで根を詰め、寝食を忘れるような不器用さで、頭痛に悩まされ頭痛薬ミグレニンを常用するようになります。これがやがて彼女の健康を損なうことになるのですが、創作の緊張感と孤独に耐えるためには、相当の意志の力と体力が必要になるので、特に当時の小説家たちにとっては珍しいことではなかったようです。



 

(3)初恋

 尾崎翠は写真で見ても素朴で地味な、飾り気のない人という感じがしますし、シャイであまり人前で自分を主張したり売りこんだりが得意でなかったようです。従って、恋に憧れはするけれども実際の恋愛経験はほとんどない、という真面目なタイプ。

 唯一、彼女にとってたぶん最初で最後の恋愛として知られているのが、彼女が筆を折り帰郷するきっかけとなった高橋丈雄との恋愛ということになります。10才年少だった高橋は同人雑誌の仲間で、「第七官界彷徨」の生原稿に最初に目を通したのも、彼であっただろうと彼は後に回想しています。

 昭和7年の夏に、創作に行き詰まり心身の健康を損ねた尾崎翠は結婚を決意して高橋と短い同居の期間を過ごしますが、生計の見通しがつかず、鳥取から迎えに来た長兄に実家に戻るよう説得され、遂にそれに応じます。東京駅で別れた高橋とはその後二度と会うことがありませんでした。

 高橋の思い出の中の尾崎翠は当然ながら美化されていますが、共に過ごした短い夏の日々、まるで少女のように無邪気だった、と回想しています。本来しっかりものの地味な
姐御肌と言われる彼女の意外な側面が彼の目には映っていたようです。

 林芙美子もまた、ずっと後になって彼女のことを惜しんでこう書いています。

 「いい作品といふものは一度読めば恋よりも思ひ出が苦しい」

 


 

(4)無風帯から

 尾崎翠は、小説家として人として不運な人という風に思われていますが、本当にそうであったかどうかは、本人にしか分からないでしょう。彼女が小説を書くことをやめてから故郷で過ごした40年ほどが不幸だったとは私にはあまり思えません。

 樋口一葉の生活についても、貧乏で早死にした気の毒な人、というイメージが先行していますが、日記などを見れば、母親と妹女性ばかりの3人の暮らしはそれなりに気楽で、時には浅草のお祭りに行ったり、上野で花見をして桜餅をお土産に買って帰ったり、といった記録も見られます。若い女性らしい気分の高揚も、楽しい時間ももちろんあったことでしょう。晩年にはごく一部の専門家の間だけとはいえ小説家として知られ、若者たちが彼女の狭い借家を訪れ夜中まで話し込んでいました。

 尾崎翠は結婚することなく、得意の料理の腕を発揮して甥や姪を育てる手伝いをします。気性がさっぱりして話の面白いおばさん、と甥や姪は思っていて、このおばさんが昔小説を書いていたなどとは全く知らなかったということです。ただ、やはり読書は好きで、その時代の主要な著作は必ず読んでいて、晩年1970年前後には北杜夫のユーモアが好みだったようです。

 小説家は、一生書き続けられる人というのはむしろ珍しく、小説家としての寿命はそれほど長くない場合がほとんどです。そういうところも、いわゆる一般の「仕事」とは違うでしょう。尾崎翠は短い期間に「第七官界彷徨」のように読者の印象に残る作品を一作でも書くことができ、ずっと後になっても覚えている人がいた、ということは、それだけでも小説家としては幸福なことであると思います。

 鳥取の静かで美しい風景と自然に抱かれた彼女の後半生は、もともとが控えめな性格であった尾崎翠にとって、必ずしも不本意なものではなかったのでは、などと私は思ってしまうのです。



 

 



            

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