(1)漂流記というジャンル

 漂流記、とは、もはや失われてしまったジャンルのフィクションでしょう。誰も知らない島、未開の土地、人跡未踏の地、などという場所を、もはや地球上に見つけることはできません。人工衛星が地球のあらゆる場所を、数十センチ単位で監視できる時代、電波が飛び交い、どこからでも連絡可能な現代において、難破した船で何日も漂った末、何年も発見されずに無人島で生活する、なんてことはもはや不可能でしょう。

 ロビンソン・クルーソーの時代よりも、地球の人口は爆発的に増大しました。今となっては、他人に見つけられずに自然派生活をするなど、贅沢の極みというべき。南アメリカ・アマゾン流域あたりの先住民族を、「蛮人」だの「人食い人種」などと呼んだら国際問題に発展するかもしれません。ロビンソンと先住民のフライデーの関係が、今の常識から見るといかにも不均衡に見えたり、「文明人」という考えが、どうしても欧米中心の偏った視点に見えたりするのも、いまどきのアジア人の目で見るから。

 そうはいっても、いやそれだからこそ、むしろ、失われた「漂流記」の世界の、あまりに素朴なヒューマニズムは今の私たちの郷愁を呼び起こしたり、却って新鮮に感じられたりするのかもしれません。ロビンソン・クルーソーにせよ、十五少年漂流記の少年たちにせよ、それまでと全く違った荒々しい自然の中という環境に置かれても、自分達のもともとの西洋文明を信じる考えやよりどころは揺らぐことなく、先住民族との出会いも相手を教化してゆく「文明人」の側にいるという信念が変わることがない。この環境に左右されない人間の存在感の充実が、自然を人間の力でねじふせようとする力強さが、むしろ伝統的に環境に合わせて生きていこうとする日本人である私などには、驚くべきオプティミズムに見えてしまいます。

(2)十五少年漂流記

 『十五少年漂流記』は、『海底二万マイル』などのジュール・ベルヌ作、ニュージーランドの少年たちが南アメリカ大陸、チリの沖合にある無人島に漂流し、そこで力を合わせて生き延びていくというストーリー。ベルヌはSFの元祖に近い設定の月世界旅行の話も書いているし、どちらかといえば少年向き冒険ものの古典的作家でしょう。冒険ものに心おどらせ、少年としてダイナミックに駆け抜けたり、正義感に燃えて行動する、なんて夢を見るのがここちよかった小学生の頃の私には、実にわくわくするストーリーでした。本人自身は小柄で痩せておとなしく、運動音痴でお下げ髪、レースの襟のワンピースなど着ていたタイプだったので、もし当時の私のアタマの中を映像化して覗くことができたとしたら、そのあまりのギャップに誰もが笑っただろうと思います。でも、私は本気でした。

 漂流する15人の少年たちのうち、フランス系、イギリス系がいて、フランス系の少年がリーダー格としてキャラクター設定されているのは、やはりベルヌがフランス人だから、などということは、子供の頃読んだ時には解説を見てああそうか、と思った程度。当時の田舎の小学生に、フランス系もイギリス系も区別がつくはずもなく、それゆえに少年たちの間に派閥グループができたり、対立関係ができたりする、という構図も、本当のところ意味は分かりませんでした。

 この物語で一番好きだったのは、少年たちがそれぞれ自分の個性や特技を発揮して、力を合わせ、知恵を出し合って苦労しながらも楽しく生活してゆくところでした。何かの特技があって、皆に一目置かれ、黙々とその作業(たとえば大工仕事)をする少年のキャラクターに、何より惹かれた私でした。あまりにも前向きな、お子さま教育向けストーリーではありましたが、漂流記のよさはその楽天主義だと思っているので、そこが魅力というべき。

 大学生になってから、このストーリーをある意味意地悪く大人の視点で反転したゴールディング『蠅の王』なんて小説を読み、その人間性の闇の部分や野蛮性への洞察力と厳しい表現に圧倒された私でしたが、それでも『十五少年漂流記』は、もはや不可能と思われる素朴な教育的健全性と、いまや極楽トンボと呼んでもいいぐらいの前向きさにおいてこそ、存在意義があるのではないかと、いまさらながら頑固に思い続けているのです。



 

 
 



            

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