(1)大海原の音


  気多の崎 若葉くろずむ時に来て 大海原の音を聞きおり

 この歌を初めて知った十代の頃、これが民俗学者折口信夫の作であるとはしばらく知らずにいました。

 日本海側の福井県のあたりに、この歌に詠まれた海岸があるそうなのですが、そこはもともとは渡来人の里であったらしい、だから、大海原の彼方を眺める人たちは、はるかな祖先のやってきた海の向こうを幻の故郷として、焦がれるような思いを心の奥深くに秘めている。じっと静かに海の音を聞く時間の流れ・・・若葉の黒ずむ初夏の頃、まぶしさを増してゆく陽光、そんな光景を思い浮かべ、まだ子供といってもいい年頃、故郷と呼べる場所もなかったのに、現実にはないどこか海の彼方への郷愁が、ひしひしと伝わってきたのはなぜだったでしょうか。

 ひとり黙々と歩く山道、踏みしだかれて色の新しくなった花を見つけ、しばらく以前に誰かが同じ道を通ったのだ、と、ふと目の覚める思いの一瞬を詠んだ歌もあり、生身の人間そのものよりも、人間の残した気配や名残りにこそ、むしろ懐かしさや体温、人の存在感を感じる、という感性は、いかにも歴史や民俗学に惹かれるような人のものではありますが・・・。民俗学者・柳田国男や折口が研究対象とし、記録にとどめたのは、20世紀前半の急速な近代化の途上、やはり急速に失われていく古い日本の姿であり、今は永遠に失われた何ものかでした。



 



            

©2001-2002 chatran