諸星大二郎 サンコミックス 朝日ソノラマ

(1)生物都市

 「生物都市」は、第7回手塚賞受賞作で、諸星大二郎のデビュー作ということになりますが、この作品を初めて読んだ時の衝撃は忘れられません。手塚治虫を始めとした審査員絶賛の作品で前評判からして期待値は高かったのですが、当時10代の私にはこの作品の本当の凄さは分からなかったと思います。ただ、少なくとも、こんなの今まで見たことない、よく分からないけど物凄い、絵はうまくないのになぜかやたら面白い、といったことは強烈に感じました。

 昭和初期の少年雑誌の挿絵を思わせる泥臭い絵柄には誰にも真似できないオリジナリティがあり、一目見ただけで彼の作品だということが分かるし、それよりも何よりも、発想とアイディアが常人にはまず思い付かないようなものでした。そういう意味でSFの描き手として正統派と言ってもよかったのかもしれません。

 後になって思い起こすたびに驚きを覚えるのは、彼が1970年前後という時期に、既にして80年代アメリカでSFの潮流となるサイバーパンクの感覚を見せていたことです。80年代になってウィリアム・ギプスンやフィリップ・K・ディック、ブルース・スターリングなどのサイバーパンク系SFを読み、既視感があったというのは諸星大二郎のSF漫画に既に親しんでいたせいではないかと思ったほどでした。

 「生物都市」の舞台は1980年代後半の日本で、いわゆる近未来ものですが、近未来SFという概念も当時はなかった、あるいは一般的ではなかったと思います。宇宙から帰還した木星の衛星イオ調査船が、ある現象を持ち込み、それは急速な勢いで伝染して広がり、社会の機能が全面的にストップしてしまう、というパニックもの、終末もののパターンなのですが、これが機械と人間の融合、有機物と無機物の融合現象というところが凄いのです。

 カメラと手が融合してしまう男性、電話器と耳が融合する人、機械工場が溶けて崩れ、その中の工員たちと融合する場面、機械と一体化した人間の無気味な姿は絵として衝撃的なのですが、更にその現象の意味するところをイオ調査船と融合してしまった船長が語る場面も印象的でした。イオに到着した調査船の乗組員たちは、その星の廃虚かと思えた都市が実はイオの住人たちと一体化した生物であることを知りショックを受けます。

 イオの環境変化により住めなくなった数億年前の住人たちは、生き延びるために機械との融合という最後の手段を選びました。機械の非生命的な形態を借りて半永久的に不死となり、生命のありかたを変えてしまったのです。

  「人びとの意識はつながり 広がってひとつになり 一方 機械は人間の神経を
  かりて感じ 頭脳をかりて 意識をもつにいたりました
   イオの全住人と機械の完全な共同体・・・一個の巨大な 新しい生物が
  誕生したのです」

  
 イオの乗組員たちは、その時すでに体が宇宙服にとけこみつつあるのを感じていました。彼等は地球に帰るべきではありませんでしたが、既に「私」というひとりの人間は消滅していました。

  「もう・・・きかなくてもわかる・・・
   機械の意志が私の中に入ってくる・・・・私の体が 広がる
  無限に広がるのが わかる・・・」

  「では科学は・・科学はまけたのではないのだな・・・?」

  「とんでもない この新しい世界で 科学文明は 人類と完全に合体する
   人類に はじめて 争いも支配も労働もない世界がおとずれるのだ」

  「夢のようだ・・・新しい世界がくる・・・ユートピアが・・・」

                 引用 『妖怪ハンター』創美社刊

 工場の部品と融合して安らかに目をつぶる工員たち、抱き合ったまま満ち足りた表情で壁に溶け込んだ恋人たち、腰や背骨の痛みから解放され、不死の体を手に入れた老人・・・終末の町の風景は眠りの森のように穏やかな安らぎに満ちているところに、何とも不思議な感じを覚えました。

 機械と全住人の一体化した共同体、というイメージに、たとえば現代のインターネットの世界を重ね合わせたりするような野暮なことはもうあえてしませんが・・・・70年前後の時期、20代前半の地方公務員だったひとりの日本の若者が、どうしてこのようなビジョンを抱くことができたのか・・・今思っても謎としか言いようがない気がします。

 金属製のもの、機械類を全部捨てて、原始時代のように自然物だけに囲まれて生きる男性のところに逃げこんだ少年は、最後のシーンでひとり黙ってたき火で魚を焼いています。

  「どうしたヒロ さびしいのか?」

 男性にこう聞かれた少年はこう答えました。

  「ううん ただ・・・
   とうとう宇宙船見れなかった・・・」

(2)礎

 諸星大二郎の作品には、終末イメージや悪夢のようなビジュアルの幻想が多いのですが、一方で日常的現実描写が実にリアルで堅実そのものであるというところもあり、その極端な両面を押さえて相乗効果を上げています。平凡な日常の裂け目から一気に世界の終わりにつながったり、異世界に入り込んでしまう感覚のリアリティと、どこかとぼけたようなユーモアとは、独特の癖の強い絵柄と相まって彼の独壇場となっている感があります。

 「礎」('78)は、彼が漫画家になる以前に地方公務員をしていたという体験があるせいか、やけにリアリティを感じさせられてしまう短編です。ある平凡な若い公務員贄田が、突然「地震予防課」という実体のよく分からない部署に異動を命じられるところから物語が始まります。上司や仲間たちは彼の異動を祝い、連れて行かれたクラブで酔いつぶれた彼は次の朝クラブのママの部屋で目を覚まします。なぜか彼の片目には傷がついていますが、ママはそのまま彼の恋人になり、出勤した新しい部署では上司の中年男性が1人いるだけで大した仕事もないのに多額の給料が支払われます。しばらく派手な生活に浸った贄田が、やがて上司に連れて行かれた場所は・・・

 地震予防課のある場所は、実は古代からの祭祀の行われる聖なる場所であり、柳田国男の「一つ目小僧その他」に記されている通り、祭りの日に生け贄の神官が1人選ばれ、片目をつぶされたうえで村びとの尊敬と歓待を受け、やがて神の贄として捧げられる、ということが代々行われていたのでした。それは密かにお役所の手で現代に至るまで続けられていて、地震の予防のための生け贄として公務員の誰かが選ばれ、公費で女性の接待を受け、優遇され隔離されたうえで、一定の期間が過ぎると祭祀の場に連れて来られることになっていたのです。

 薬で眠らされて目を覚ました時、彼はそれまでの生け贄になった人々の骨が累々と散らばる祭壇の上で、都知事や市長、課長たちに囲まれていました。

  「きみは神聖なる人身御供に選ばれたんだよ。」

  「代々 武蔵の国を守ってきた神官たちの仕事は東京都職員が継がずして
   誰が継ぐ? 公務員以外にだれが都民のための人柱になりうるのだ?」

  「昔の人は自ら喜んで神に身を捧げたものですよ 贄田くん
   公務員は都民の礎です やはりそうあってほしいものです」

 この最後の言葉を当時の都知事そっくりのキャラクターが微笑を浮かべながら言うところで物語は終わります。まるでカフカの「審判」を思わせるラストシーンですが、同様にカフカの「城」を意識したと思われる作品もあります。ある大企業に住人すべてが依存している町の物語で、本社に書類を届けるために出張した社員が、いつも手続きで「この書類はあちらの窓口に」とあちこち回され、いつまでたっても本社にたどり着けずにその町の住人になり結婚して老人になってしまう、という不条理かつブラックな笑いを含んでいます。

 カフカ自身もプラハの社会保険関係のお役所のお役人だったのですが、そのことと2人の作品の発想に似通ったところが見られることは無関係なのでしょうか・・・・? 諸星大二郎の絵柄やストーリー、表現に見られるある種の固さ、よくも悪くも決してあか抜けない生真面目さも、その反動としての幻想世界のとてつもない奇怪さも、緊張や不安と表裏一体のとぼけたユーモア感覚も、根底の部分でカフカと同質のものがあるように感じてしまうのですが・・・


 

 

(3)猫パニック

 諸星大二郎の漫画では、ごく日常の風景から始まって、ちょっとした拍子でルーティンが狂うといきなり雪だるま式に大袈裟な事件に発展していったり、怪異な幻想的異世界に入り込んでいくというストーリーが多く見られます。神経症的な妄想に近いこの膨張する不安傾向が、彼の癖の強い泥臭い絵柄でビジュアル化されると、そこに何とも言えないとぼけたおかしみが生じることがあります。

 「地下鉄を降りて」('76)「猫パニック」('75)は、そういったブラック・コメディの傑作であるかと思います。「地下鉄を降りて」は、ある平凡な中年のサラリーマンが、ある日東京八重洲の地下街でいつもの帰宅コースからはずれて他の道を歩いたところ、道に迷ってどうしても出口が見つからなくなってしまう、という日常の不条理の話です。要するに、東京の地下鉄路線がなかなか慣れない人には分かりにくいとか、乗り換えが難しいとか、地下街が迷路化している、といったような誰もが感じていることを極端に拡大してパロディ化しているわけで、こんなオーバーな、こんなことあるわけない、と、作者のあまりに大袈裟な不安傾向と想像力に笑いを誘われつつも、一方で、そうそう、こういう見方もあるんだなあ、とある面感心させられたりもします。八重洲の地下街の描写が細部までリアルだったりするところも効果をあげていると思います。

   そう いつもきまったルートをまもっていれば迷うことはない
   社会心理学でいう「制度的行動」というやつですな これに従ってる限り・・・

   東京という所は大体において安全だけれど・・・いったんこれから離れた行動をしようとすると・・・
   東京は巨大な迷路と化すのです!

 もう1ヶ月も迷っているというホームレスの男性が、こう言って「地下街というのは実は人間捕捉機関なんだそうです。」と彼に説明します。通行人をすぐには外に出さないでお金を落とさせるためにわざと迷路化させてある場所なのだ、と・・・。 しかし彼は必ず外に出られることを信じて、上へ上へと登って行き、ついに地上に出ることに成功しますが、そこはなぜか高層ビルの屋上で、はるか下に見えるのは新宿駅でした。彼は思わず目眩を覚え、そのまま屋上から身を投げて・・・・

 「猫パニック」はさらにこの妄想を膨らませて終末ものに近いパニックものにしてしまった話です。75年のある夏の暑い日、毎朝神田の公園を通って学校に行く小学生の少年が、毎朝そこで見かける野良猫が、いつも3回顔をふくのにその朝に限って2回しかふかなかったのに疑問を抱いたところから事件が始まります。動物がいつもと違う行動をするのは地震の前触れでは、などと言う地震予知の研究をしている大学生。その猫が車の前を横切ったため事故が起こり道路が渋滞し、更に電車の線路を横切ってポイント事故と電車の遅れが生じて、暑さでイライラがつのっていたラッシュ時の乗客たちの日頃からの怒りが爆発し暴動が起こります。そこで起きた手違いから国会が襲撃され地下鉄で火事が起こり、地下街から隅田川まで火の海に・・・それが東京湾のタンカー事故につながり、晴海のコンビナートが爆発、大パニックに発展してしまいます。

 人々の間では大地震が起こるという噂が流れ、たった一匹の野良猫の顔をふく回数が変わっただけで東京全体が危機に瀕する、という大掛かりなブラックコメディですが、笑いを誘われつつも、大都市がいかに危ういところでバランスを保っているのか、という冗談混じりの問題提起にはやはり感心させられざるをえません。
これこそ「風が吹けば桶屋が儲かる」式のよく分からないおかしな関係性ではあるのですが、不安神経症傾向のあるタイプの人間の杞憂とか妄想というだけでは片付けられない何かを感じてしまうところが、諸星大二郎という表現者の奇才・異才と呼ばれるゆえんではないでしょうか。

(4)マンハッタンの黒船

 諸星大二郎の漫画の魅力は、ともかく発想がとんでもないこと、それでいて現実もしっかり押さえていて、鋭い指摘があっても絵がヘタウマでとぼけているために独特のユーモアがかもし出されている、という、普通は破綻しそうな組み合わせが例外的にバランスを取って、誰にも真似できない不思議な世界を作っているところでしょうか。

 まったく、このホラー感覚、怪奇な視覚的幻想がリアルな洗練された隙のない絵柄で描かれていたら、こちらは恐れおののき作者にはとても近寄れないだろうと思うのですが、絵が稚気を含んでどこかお間抜けな雰囲気があるために憎めない、むしろ人間味を感じて安心してしまったりするところが面白いです。

 「マンハッタンの黒船」は、中でも発想の凄さが光っている作品だと思います。基本的なアイディアとしては、近未来、アメリカが鎖国を敢行し、99年後に日本の黒船が来て維新が起き開国する、という、幕末の歴史を日米の立場を逆転して描いただけの作品なのですが、細部の描写が幕末維新の歴史を知っている読者にとってはたまらないウィットに富んだパロディに満ちていて、思わず唸らされたり吹き出したりします。

 日本の原子力船ブラック・シップの名前は佐助花丸、船長の名前は縁井(へりい)提督、張津(はりつ)大使が同行して、不自由の女神像の立つニューヨークに降り立ち、市長のトック・ガワンに開国を要求。サンフランシスコの出島には日本領事館がありましたが、開国に反対するカリフォルニア過激攘和派盟主ヴァン・ペイターは焼き討ちを行います。カリフォルニア州議会が外国飛行機打落令(外国船打ち払い令のこと)を通過させると、日本は海上自衛隊を出動させ加日戦争が勃発します。

 テキサスの脱州者(ステートセシーダー)リオ・サカモンドは空援隊(つまり海援隊)を組織しフロリダのサイモン・タクモーリーと会合してカ・フ連合(要するに薩長連合)を作りワシントンと対決します。開国は大統領の勅許を得ずにE・カモンによって強行されますが、彼は攘和派により暗殺されワシントンアーチ外の変(つまり桜田門外の変)が起きます。

 こういった人物たちがみな歴史上の坂本竜馬や西郷隆盛、ヘリ−提督やハリス大使、竹中半平太といった人物たちに似せて描かれているところも芸が細かい。その他、新撰組はニュー・セレクテッド・ポリス(NSP)で、隊長サミー・コンドック(近藤勇)、副長ヒッティ・カッター(土方歳三)、一番隊隊長ジョージ・オッキンター(沖田総司)、ニューヨーク見廻組はパトロール、「ザ・ポンド」(要するに池田屋)に集まったキッド・タッカー(つまり木戸孝允)らの志士たちをNSPが襲って、民衆はドンマイ・ダンス(ええじゃないか)を踊りデストラクション(うちこわし)を行う・・・

 遂にアメリカの御一新(ニューエイジ)が来た、と言うリオ・サカモンド(坂本竜馬)の目の前で不自由の女神が倒れ、そこに現れたパトロール(見廻組)の暗殺者に撃たれたリオは、「見な・・・」と倒れた女神像を示します。

 「それはアメリカの夜明けであった」

 と大きく書かれた字でラストシーン。
 バカバカしくも素朴ではあるのですが、ここまでストレートに英訳?された幕末維新史パロディを見ると感心を通り越して感動してしまったのを覚えています。
 こんなジョークでも、アメリカ人が読んだら気を悪くする人もいるでしょうか・・・・?

 

 

 

(5)妖怪ハンター

 稗田礼二郎(ひえだれいじろう)・・・これが「妖怪ハンター」の主人公である異端の考古学者であり妖怪バスターでもある人物の名前です。もちろん見てすぐ分かるように古事記の稗田阿礼をもじったネーミングですが、声に出して読んでみるとその大時代な響きに思わず吹き出してしまいます。若い頃の武田鉄矢を思わせる長い髪(決してロン毛ではない)にダークスーツというファッションも確信犯的ダサさでアナクロくていいです。

 ゴーストハンターものは欧米ではホラー小説のひとつの類型で、映画の「ゴーストバスターズ」などはそれをパロっています。もともとは悪魔払い(エクソシスム)とも関連があるのだろうと思いますが・・・稗田礼二郎はシャーロック・ホームズや金田一耕助よろしく、日本各地に残る考古学のミステリースポットに出かけてはそこで起きる妖怪事件を解決していく、というシリーズものになっています。

 九州の装飾古墳にまつわる謎に挑む、ヒルコという古事記に出て来る黄泉の国の化け物を扱った「黒い探究者」、朱唇観音という伝説の鬼にとりつかれた少女の変身の物語「赤いくちびる」、東北のキリストの墓伝承のある村で起きた怪奇事件の話「生命の木」、反魂の術という死者を蘇らせる古代の術を使って夫を蘇らせようとする巫女の血筋の母親の話「死人がえり」などなど、それぞれ考古学や歴史学の史料まで使い、豊富な知識に支えられた奇抜な発想は読者をひたすら唸らせるのみです。

 特に「生命の木」に至っては、まず彼以外の誰もこんなことは思い付かないだろうし、思い付いたとしてもこんなにリキを入れてシリアスに描くなどということは到底できないだろうと思えるものです。それ以前に、こんな宗教をパロディにしたような内容では今ならきっとクレームが来て掲載不能になってしまうのではないかと思われます。

 青森あたりにキリストの墓だという言い伝えの遺跡のある村があるという話は割と知られていますが、多分それを下敷きにして、隠れキリシタンの聖書異伝も援用し、東北のある山奥のかくれ村で、善次(ぜずす)という男性が十字架にかけられて殺されるけれども復活し、重太(ユダ)という老人を残して村びと全員を地獄から救いだし天国に導く、というとんでもないストーリーになっています。地獄(いんへるの)に蠢く死者たちの固まりに、

 「みんなぱらいそさいくだ! 
  おらといっしょにぱらいそさいくだ!!」

 と、東北弁で叫んで天国(ぱらいそ)に導く善次(ぜすさま)のシーンは圧倒的な迫力に満ちていて、思わず「ここまでやられては」と、ノックアウトされる力わざの説得力。たかが漫画ですから、と、言い逃れができそうもない、世知辛く細かいことにうるさい?昨今においてはちょっと読むことも出来なさそうな、貴重な雄大さのあるおおらかな作品かと思います。



 
 

(6)人をくった話

 諸星大二郎の漫画を読んでいると、これこそ元祖・ブラックユーモア、と言いたくなるような素朴かつ訥々とした昔懐かしい風刺を含んだおかしみに触れることができ、町を歩いていていきなり駄菓子屋さんや銭湯にでも出会ったような安心感を覚えることがあります。決して洗練されてはいないのだけれども、たとえば普段苦虫を噛み潰したような顔をしている物理の先生が真面目な顔をしておかしなことを言うような、しばらく考えてからやっと笑いがこみあげてくるような、その人が言うからこそ面白い、というキャラクター依存型のユーモアを思い出します。

 諸星大二郎も、恐怖ものや幻想ものを書いていて、著者の写真などもスティーブン・キングなどと同様、わざとその作風イメージに合うように変人ぽく暗い雰囲気で映っていたりしますが、この人のコメディものを読むと、実は一方でお笑い大好きでいつも可笑しなこと考えてる人なんだなあ、とも思ったりします。それも根がきまじめな人ならではの神経症すれすれの重たさと垢抜けなさのつきまとう、あるいはそれだからこそのちょっと真似できないユーモア感覚です。こればかりは分かる人にしか分からないおかしみかもしれません。

 「コンプレックス・シティ」(’78)は、人間と機械が戦争を繰り広げているとある惑星の話。スナック「細胞愚」という店の建っている三叉路の向こうは、道を隔てて向かって右が人間の町、左がロボットの町になっていて、人間の町は丸みを帯びた建物が並び、ロボットの町は四角張った風景です。機械は人間の非合理な行動を見ると論理回路が混乱するので、人間はわざと無意味な行動をしたりしてロボット軍団を撹乱します。人間の最終兵器AKBMの秘密をロボットたちは知ろうとしますが・・・

 ロボットたちは人間の五感を持たないため、対抗手段としてコンプレックス回路を開発し、笑うことができるようになっています。はちゃめちゃな争いの最中、間違って押されてしまった最終兵器のボタン。巨大なその機械はやはり巨大な舌をべろーんと出すAKBM(アカンベ−マシン)・・・ロボットたちはコンプレックス回路が破壊されてしまい・・・

 「ブラック・マジック・ウーマン」(’79)は、ごく平凡な生活感あふれる町の安アパートに住みついた貧乏漫画家が、ある晩壁の穴からのぞくと、大家のおばさんや隣のスナックのママ、近くの町工場のおじさんなど、近所の人たちがせまい空き地でサバト(魔女の集会)をやっていた、という話。そのとんでもない設定と日常的風景のリアルさ、生活感のにじんだ魔女の会話のギャップがどうにも笑えて仕方ありません。

   なんだいこりゃアマガエルじゃないか ガマガエルじゃなきゃだめなんだよ
   だって西友の夏休みコーナーにはアマガエルしかなかったのよ
   しようがないねえ

  と言いながらカエルをサバトの大なべに投げ込む大家のおばさん転じて魔女

   悪魔ベルゼブル様 レオナルド様 わしの魂とひきかえにうちの工場に繁栄を・・・
   倒産させないでください

  と悪魔の像に祈りをささげる工場のおじさん。

   うちのスナックにも客がきますように スペシャルセットで5時間もねばるような
   客には罰をお与えください

  これはスナックのママ。

 そして極めつけは「人をくった物語」。「ぼく」がある日レストランでステーキを食べようとしていると、目の前のお客がステーキに食べられてしまい、狐のえりまきを店で選んでいた奥さんはえりまきに首に巻かれて外に出て来て、ゴミを捨てようとしていたおじさんはゴミに丸められて捨てられ、・・・と、町中が混乱してきたので、「そうだ! こうなったら町から逃げ出そう」と、彼が思い付いたとたん、

  一瞬おそく ぼくを捨てて どこか遠くに行ってしまったのは 町のほうだった

 
        −引用「コンプレックス・シティ」双葉社刊


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