吉田秋生 小学館文庫 小学館

(1)カリフォルニア物語ー1

 70年代半ば、吉田秋生の「カリフォルニア物語」を最初に読んだ時の、何ともいえないあの清新な感覚・・・それまでの少女漫画の約束ごとや先入観に縛られていない、映画を見ているようなスピード感あふれる場面の転換と表現のリアルさが実にここちよく感じられました。

 西海岸の裕福な弁護士の家庭に育った少年ヒースが、秀才の兄と厳格な父親に反発し、一人家を出てカリフォルニアからニューヨークをめざし、ニューヨークでイーヴというヒスパニック系のゲイの少年に出会い、さまざまな人々とのかかわりを通して成長する、というストーリーは、設定にはたとえば「エデンの東」を思わせるところがありますし、ニューヨークでの若者の生活の描写、ゲイの恵まれない境遇の少年との友情などはたとえば「真夜中のカウボーイ」などの古典的アメリカ映画をおそらくは意識的に取り入れているようでした。

 少女漫画で少年を主人公にする、という一種の流行は、たぶん大ベテランの水野英子がやはり60年代終わりに「ファイヤー!」でカリスマ的少年ロック歌手のストーリーを描いたのがハシリだったでしょう。その後の新感覚派・24年組がそれを受けて美少年を主人公にした同性愛ものの端緒を作り、美少年漫画の流行が少女漫画の一つの流れを作るようになります。

 少女漫画の存在理由の第一として、恋愛を描く、ということがあり、恋愛ものの要素は、たとえそれがスポ根もの少女漫画でも、歴史ものでも必ず中心に来ていました。しかし、60年代ぐらいまでの様式化された少女漫画の表現においては、主人公のキャラクターはシンデレラタイプで、美しくても自覚を持たず、気立てがよく、状況に順応力があり、他人の救いを待つことのできる、言ってみれば他力本願な性格づけだったので、だんだんと現実の日本の女の子たちの日常感覚や精神状況に合わなくなってきていました。テニスなど比較的見栄えのよいスポーツや女優を描くようなストーリーであればまだしも、本気で芸術や冒険やSFものの宇宙飛行士を描くストーリーを描きたくなった時、そういった様式的少女主人公のキャラクターではとてもストーリーが成立しないのは明らかです。

 そういう場合に、男の子を主人公にしてしまうのは、結果的にグッド・アイディアでした。それまでは、少女を主人公にしなければ少女の読者たちは思い入れがしにくいと思われていただろうし、実際そうだったかもしれませんが、当時の読者の中にはそういったステレオタイプ化された少女主人公があまりにも自分の現実と懸け離れていて、また理想とも大違いで、むしろ自分から行動し自分を笑ったり相対化でき、三枚目を演じることもできる少年こそが現実の自分に近く、思い入れもしやすい、と思っていた少女がたくさんいたのではないでしょうか。そういう読者層が準備されていた70年代にこそ、少年を主人公にした漫画の流行が受け入れられる必然性があったのだと思います。

 

(2)カリフォルニア物語ー2

 たとえば24年組の竹宮恵子の「風と木の詩」を筆頭とする少年愛をテーマとした作品や宇宙飛行士を夢見る少年を描くSFものの中のキャラクターたち、「空がすき!」の少年泥棒タグ・パリジャンやピアニストとしての厳しい道のりを歩む少年・レイ、ファンタジーの中の少年オルフェなどなどは、現実の少年とはかけ離れていたけれども、当時のある種の少女たちにとっては、内面の現実的自分や理想的自分の像に近いところがあったかと思います。

 これはなかなか理解されがたいことのようですが、たとえば美少年漫画の主人公の少年を、読者は自分の恋愛の対象やアイドルとして見ているのかどうかは、男性によく聞かれたことでした。そういう男性像が読者の女性たちにとって男性として理想的なのか、という疑問です。

 ここにはダブルスタンダードのようなものがあるかと思います。もちろん漫画の主人公の少年はアイドルのような異性の恋愛対象としても見られるでしょうが、ある種の少女たち、たとえば当時の私のような、客観的には理想的女性像とはずれたお転婆な面を持つ女の子、とても男性の理想とするような女性像は演じきれないと絶望(笑)していて女性として自信が全くない、自分の中の男の子要素を自覚しているような女の子にとっては、それはむしろ少女主人公よりも自分に近く、自分のこととして見て共感できるキャラクターなのでした。

 私はどうも、子供の頃から、少女漫画を読んでいて、その中の主人公の少女には全く思い入れができなくて、ひとごととしか思えなかったし、またそういう風になりたいとも思わず、なれる気が全くしませんでした。こういう他力本願なキャラクター、可愛くて美人でできるだけバカなところを見せて何も持たず人に嫌われず、その気立てのよさがあればいつかは男性が助けてくれる、というストーリーが本当だとしたら、私には永遠に助けは来ないだろうと(笑)最初から諦めてしまっていました。つまり、女性としての自分に自信が持てなくなる一方だったので、少女漫画の主人公ははっきり言って嫌いでした。ひとのせいにしてはいけないのですが、当時のこういった理想的女性像に、私は最初から敗北感を抱き、打ちのめされて、自分は絶対に女性としては人を頼りにはできないなあ、と思ってしまったのかもしれません。・・・

(3)カリフォルニア物語ー3

 さて、そんな風になんとなく感じていた当時の10代の女性というのはけっこう多かったように思います。女性のエリートコース?から最初からはずれていると既にして自覚してしまっている人たちは、主人公が男性ならばそれだけで安心できるところがあったのかもしれません。どんな美少年でも、男性であるということで、それだけ男性を対象とした恋愛には不利なハンディがあるわけで、いくら理想的女性像からは遠くても生物としては女性であるこちらとはまあトントンの条件・・・ということで、ちょうど共感できる境遇であったというわけです。

 女性にしてはものごとにディープに取り組みすぎるし、理想的女性にしては可愛さが感じられなくなるほど考え過ぎるし、自分でどんどんやってしまうし・・・という生活上の行動原理も、私のようなタイプは力の弱い男性であるゲイの男性に近く、男性としては男性とライバル関係でありながら恋愛関係ともなるという、ほとんど不可能に近いダブルスタンダードの中で苦悩している姿にも実に思い入れができて切ないぐらいでした。

 内面が男の子であっても、男の子という自然の実体そのままで男性に愛してもらえたら、という渇望みたいなものを体現してくれていたのがこれらの美少年主人公たちだったのだと思います。それがないものねだりであることは十分に承知のうえだったからこそ、漫画の少年たちの不毛の愛に深く共感することができたのでしょう。

 さて、話は戻りますが、吉田秋生の漫画の中の少年像の新しさというのは、それが現実の少年に近いリアルなものだったということです。萩尾望都や竹宮恵子の漫画の閉ざされた美しい世界に出てくる美少年たちは読者の内面の自分、たとえばユング心理学でいえばアニムスの体現であったと思うのですが、またそれゆえにかれらは現実の少年とはかけ離れた女性的ルックスだったわけですが、吉田秋生の漫画に出てくる少年たちは、読者の内面を映しているのみでなく、男性としてこちらの憧れや恋愛の対象ともなるような、現実に身の周りにもいそうな、リアルな男の子らしさを感じさせるキャラクターでした。

(4)カリフォルニア物語ー4

 吉田秋生は佐藤史生などと同じく、ポスト団塊世代で、24年組から見ると7才ぐらい若い世代に属しています。従って、この人たちによってそれまでの少女漫画からすれば全く感覚の違う作品が描かれるようになったのは当然かもしれません。

 60年代風の古典的少女漫画に出てくる男の子は生身の存在感が薄く、現実にはまずいそうにない女性的ルックスを持ち、自分で何も考えていないような、人間離れした人形的キャラクターでした。それはもちろん、少年漫画に出てくる女の子像がやはり現実味が薄かったのとおあいこなのですが、これを言ってしまうとおしまいかもしれませんが、要するに、当時の漫画家の人たちに異性と深く日常的に接する経験がほとんどなかったのが原因でしょう。

 男性漫画家にとってさえ、漫画なんて男子一生の仕事ではない、と、世間に軽んじられていた時代です。まして少女漫画の描き手となると、ほとんど10代なかば、中学生か高校生でデビューし、出版社に囲い込まれ、男性といえば編集の担当さんぐらいとしか接することなく数年間で使い切られる、というのが普通だったようです。少女漫画とは現実離れした蝶よ花よの浮き世離れした夢を描くもので、描き手が世間ずれしてしまっては読者と感覚がずれてしまうから、世間知らずでいいと思われ、実際に10代半ばから世間一般と隔絶された生活をしていた漫画家の人たちが漫画の世界以外を知る機会はまずなかったでしょう。男性漫画家の場合にも、この時代には職人的な弟子入り修業などの習慣が生きていたようです。

 よくも悪くもそういった職人芸的な世界であった少女漫画において、その世界でのみ通じるマニエリスティックな表現や決まり事が増えたのは当然のことですが、吉田秋生はそのような前時代の少女漫画の伝統とは切れたところから漫画を描き始めた人でした。彼女は美大出身で、絵の技術には確かなものがあり、斬新な映画的構図やコマ割りなど、それまでの「少女漫画らしさ」という先入観を知らないがためにこだわらないで済むという強みが存分に発揮されていて、読者の目を惹いたのです。

 

 

(5)カリフォルニア物語ー5

 吉田秋生の漫画の少年を見て初めて、現実に身の周りにいる男の子に近いキャラクターを少女漫画の中で発見することができました。彼女は男の子の考えの傾向や行動パターンをよく知っていて、男の子の言葉遣いもリアルに再現していたし、顔の描写だけでなく男の子の身体全体の描写にも迫力がありました。これは実際に毎日身近に同年代の男の子を見たり、友だち付き合いや恋人としての付き合いをして、彼等の考えをよく聞き、猥談の相手さえできるフランクな男女共学の同級生的な関係を持てたからだと思います。

 やはり吉田秋生の同年生まれの柴門ふみの代表作の一つが「同級生」であることは象徴的かもしれません。この世代に至って、中高生の男の子と女の子の友だち付き合いや自由な恋愛やデートといったことがようやく一般化し普通になったことを反映しているような気がします。

 それまでの少女漫画の男性といえば、ほとんどちゃんと話が通じない、何を考えているのか分からない、というより、恋愛の対象という理念をキャラクター化したものだから、女の子にとって都合のいい言葉や行動しか取らなかった非現実的な存在だったのが、ここにきてようやく、私たちがふだん学校で普通に話をしている同級生の男の子と同じように話ができそうな、実在感のある、血の通ったキャラクターに出会えたことは実に感激ものでした。



            

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