(1)愛と哀しみの怪獣

 子供はお化け、怪獣が好き、というのが当たり前とされていますね。実際、自分の子供を見ても周りの子供達を見てもそうですし、自分の子供時代も当然そうでした。それは男の子、女の子を問わず真実であるようです。

 ただ、いい年をした大人が、ずっと怪獣を好きだったりするのは、ちょっと異様なことに見えるでしょう。それで、小心者(というより、いい年して自意識過剰)の怪獣ファンの大人は、世間様の目を気にしながら、「こんなことしてていいのか?」と、自ら突っ込みを入れつつ、こっそり一人で怪獣とのバーチャルな逢瀬の時間を楽しむことになります。

 なぜあんなに怪獣が好きだったのか?  思い出してみると、いろいろな理由があるのですが、まず何よりも、ルックス的なインパクトの強さと面白さ、唐突に現れて、ただ街を破壊しまくるだけという行動の無目的無意味なシンプルさ、恐さと表裏一体をなしている何とも言えぬ哀感、といったところではなかったかと思います。

 子供心にも、怪獣が突然出て来て人間を襲ったりすると恐い、とは感じるものの、どこかで怪獣に妙な共感を抱かずにはいられないところがあったのです。それは、考えてみたらなぜ怪獣がひたすら退治されなければいけない存在であるのか、出てきたとたんに悪者と決めつけられるのか、合理的な説明がつかなかったからでもあります。

 これは周り中の子供や若者が言っていたことなので今さらなのですが、怪獣は可哀想だ、ただ一匹だけサイズが大き過ぎて邪魔になる、そして見た目グロい顔をしている、というだけのことで問答無用で退治されるのだから。怪獣だって生存がかかってるのだから、身体が大きすぎればついつい建物をこわしてしまったりするのは当たり前だし、世界じゅうで同じ仲間や立場や言葉の通じる相手もなく、孤立してれば不安で荒れたりしたくなるのも分かるぜ、怪獣にだって言い分ぐらいあるだろうに、怪獣には裁判を受ける権利もないのか、なんてところでした。

 唐突に世界に投げ出された、ただ滅ぼされるためだけの、邪魔なだけの、迷惑なだけの存在。・・・その姿は恐ろしくもあるけれども、愁いに満ちていて、ひたすらに孤独でした。まあ、そこまで深くは言葉にして考えてはいなかったのですが、一瞬にして直感として感じていたものがあったのだと思います。

 私の悪役好きは生まれつきだったようで、怪獣好き、というのもその路線の一つだったのかもしれません。

 

 

 

 

(2)ペギラ

 さて、私が小学生の頃、ちょうど「ウルトラQ」が始まって、ウルトラマン,ウルトラセブン、等々、その後のウルトラものの端緒となるのですが、子供の目に焼き付いたモノクローム・円谷プロオリジナルの怪獣ものの衝撃の強さは、まだまだ情報や刺激の少なかった大らかな時代にあって、忘れがたいものとなりました。

 毎週のように壊されている東京タワーは、どうやって修理してるんだろう、などという素朴な疑問もちらほら出ていたのですが、当時東京最大のランドマークであった東京タワーを破壊する、という怪獣の行動が、お約束のようにビジュアル化されていたのは、あれは視聴者の潜在的願望をかなえているんだよ、とは、高校の美術の先生の解釈でした。

 そうそう、怪獣は孤独でニヒルで可哀想なだけではなく、痛快な存在でもあったのです。子供ならば、あるいは大人になってさえひそかに、誰しも夢の中で巨大な体になって、東京タワーにまゆをかけたり、ちょっとはたいただけでゆがめてしまったり、あるいは、中にいる人ごとゆさゆさやって驚かせてみたい、なんて思うことがあるのではないでしょうか。怪獣はそんな願望を体現するキャラクターでした。

 ウルトラQではペギラという怪獣が出てきて、東京を凍らせ、東京タワーを両手でつかんで揺らしたりしていましたが、その中で呑気にラーメンを食べながら「わあ、ペギラってでかいなあ」と見上げているちょっと太めの少年の反応がおかしく、自分もその場にいてペギラを間近に見られたらいいのに、なんて思ったことを思い出します。

(3)キングコング

 怪獣ものの映画やテレビドラマがこれほど多く作られ、怪獣がこれほど多くいる国は、どうやら他にはあまりないようなのが面白いと思います。アメリカの古典的スター怪獣であるキングコングぐらいは思い出すのですが、ちょっとこれも日本の怪獣とは性質が違うように感じますね。

 キングコングはゴリラが単純に巨大化しただけのもので、野生動物のイメージの集約されたもの、しかも擬人化されていて人間的・コミカルなキャラクターになっていてアメリカの陽気なオヤジさんのようです。女好きだし・・・なんてことも既に周知の事柄なのでこれ以上は書きませんが。

 日本の怪獣は、何を考えているか分からない、非人間的な存在である、という以前に、存在そのものが恐るべき悪である、という、一種不条理なまでの?切なさがあるのはなぜなのでしょうか。・・・これについても、やはり分析している人はたくさんいて、キングコングを野生動物、あるいは野生による都市への逆襲のメタファーとして読むとすれば、日本の怪獣は天災あるいは戦災のメタファーである、なんて指摘も昔よく見かけました。

 なるほど、怪獣が地震や台風など、天災のイメージをビジュアル・キャラクター化したものだとすれば、その唐突な登場の仕方も、恐ろしさも、問答無用で退治しなければならない理由も納得できます。天災はもともとは神々の仕業とされていたのですから、怪獣はもしかしたら、氾濫する河のメタファーでもあった八岐大蛇の遠い子孫であったり、あるいは、これもひとつの「零落した神々」の一種なのかもしれませんね。

 だとすれば、怪獣に恐れとともにある種の畏敬を感じたり、ひそかに同情・共感してしまったりする子供の直感は、それほど見当はずれのものでもないようにも思うのですがどうでしょうか。

 

 

 

 

(4)キングギドラ

 さて、日本の怪獣の極め付けといえば、ゴジラだと思いますが、彼は私が生まれるずっと以前に既に存在していた元祖・怪獣です。ゴジラについてはあまりにも多くの人が語っているので、今さら私が書くこともなさそうだし、また別のところで出すとして、ビジュアル的に私が最も強いインパクトを感じたのは、キングギドラでした。

 ネーミングもストレートで純朴なもの凄さがあるのですが、デザイン的にもあれはゴージャスというのか、高貴さすら感じさせ、いかにも無敵という感じでした。三つの頭を金色に輝かせながら、悠々と空を飛んでいる場面では、鳥肌が立ったほど。もともとが金星から来た怪獣で、金星の文明を滅ぼしてしまった、などという話も考えてみればわけもわからず凄い・・・・

 当時能登半島の山の上に住んでいて、空想癖の強い過敏な子供だった私にはあまりに刺激が強過ぎて、映画を見た後3日間ぐらいは空を見上げるとキングギドラが飛んでいるイメージが浮かんでくるほど、ぞくぞくと恐かったです。

 学校の教室では授業中もそんな風にぼおっと窓の外の空を見ていたものだから、先生には怒られるし、でもさすがに「キングギドラが飛んで来ると大変ですから」とは説明できなかった小学2年生ごろの自分でした。

 キングギドラというのは、よく考えてみると、日本神話に出てくるヤマタノオロチと同系統のデザインだったと思います。世界中の神話にあるドラゴンにも似ていたし、それだけ由緒ある?かたちだったのかもしれません。それを言えばゴジラだってドラゴン系統なのですが、ドラゴンは古生物学的に遡ればやはり恐竜まで行き着くし、何にせよ連想は止らない、といったところです。

ゴジラー1

 さて、日本の生んだ怪獣の王、と言えば、やはりゴジラがまっ先に上がるでしょう。実際、怪獣映画の元祖がこの「ゴジラ」、昭和29年作。私が生まれるよりもずっと前から存在していた怪獣なのですね。

 ネーミングもぴったりで、インパクトあってしかもシンプル、キャラクターの造型的にもほとんど完璧。と、私には思えます。恐さの中にもユーモアと哀愁さえ漂わせるあのご面相が好きでたまりません。

 怒りに孤独感をはらんだ三白眼をやや下向けて、口から吐く放射能、背中のトゲトゲを光らせながらしっぽを振り回すあのシーンは、恐ろしくも美しかった・・・・ゴジラのデザインは、ルックス的には恐竜、それも肉食恐竜のティラノサウルスによく似ているのですが、恐竜の外見については実はナゾが多く、たとえば表皮はどんな色だったかとか、模様があったかなども分からないらしいので、単にティラノサウルスのイメージに似せている、と言った方が正確かもしれません。

 ティラノサウルス・レックス、という恐竜についても、ノスタルジックな思い入れがあるのですけれども、恐竜がドラゴン、神話伝説の龍と似通ったイメージであるという事実は、人類のDNAに刻み込まれた遠い恐竜時代の記憶に淵源を持つのでは、という指摘も言い古されたことではあります。

 ともあれ、ゴジラは恐竜に似通ったドラゴン系のルックスを持った怪獣であり、それゆえに「かたち」的にはオリジナル極め付け、の怪獣らしい怪獣、という気がします。ゴジラがヒットしてその後海外も含め40年間以上にわたり何十作も映画が作られるに及んで、ゴジラというキャラクターは既に常識として定着し、ゴジラと言えば日本人の誰もがほとんど近似のイメージを即座に思い浮かべることができるようになりました。つまり、ニックネームにもパロディの対象にもしやすい、ということ。

 プロ野球選手のジャイアンツ・松井選手はゴジラという呼び名の方が親しまれているぐらい。はっきり言って顔だちも似ているし、人間離れしたパワー、相手チームに恐れられ敬意さえ払われるほどのぶっとんだエネルギー、そのくせユーモラスで一匹オオカミ的な、でも根はシリアスな性格、なんてところも、ゴジラの名にぴったり、なのかもしれません。(身体も大きいし・・・)





 

(6)ケムール人の走り

 一番恐かった怪獣というと、実はケムール人なのです。私の場合は・・・・。テレビ最初の怪獣ドラマシリーズである、黄金期円谷プロのウルトラシリーズの始まり、「ウルトラQ」・・・こちらもまだ小学校低学年というところで、キッチュで穴だらけの仕掛けでも、プロットに無理があっても、ただ怪獣の存在感そのものが烈しく新鮮でありました。

 ケムール人はバルタン星人などと同様、異星よりのインベーダー(懐かしい言葉だ)だったのですが、彼はそれほど巨大サイズではなく、でも人間よりは相当大きく、夜中の誰もいない町なかの道を一人で走っているのですが、その走り方が鳥肌ものなのです。なんと言ったらいいのでしょう、ものすごいロングストライド走法なんです。スローモーションのように、足を上げて次に足を着地させる場所がずうっと遠くにある。・・・・足跡が巨大で、しかも何メートルも先に次の足跡がある、この世のものではない何かであることが確実と言えるような走り方だったのです。

 夜中にひとり走っている、ナゾの生物、というのは、東欧だとかインディアンの民話なんかにも出てくるらしくて、恐怖小説にもそういうものが出てきたのを覚えています。存在し得ないような、あり得ないかたちの足跡、って、これは恐いですよね。

 今でも、ケムール人が夜中の街のアスファルト道路をひとりスローモーションで走っている映像を思い出すと、背筋が寒くなることがあります。ストーリー全体としては、例によってほんの30分で失敗・解決してしまうような、間抜けな侵略の仕方だったから、意外とお茶目でもある侵略者ではあったのだけれども、もうそっちの方は覚えていなくて、ただひたすらあの「この世ならぬものの走り」のイメージが目に焼き付いて、少なくとも私にとっては、最も恐かった怪獣の代表者となっているのでした。

 

 

(7)ゴジラー2

 怪獣がなぜ退治されなければいけないかといえば、どう考えてみても、要するにサイズが大き過ぎる、ということに尽きるようです。大き過ぎる、とか、余計なものが出ているとか、無駄である、といったことは、日本においてはあまり歓迎されないし、美意識にも反するものがあるようです。

 日本の歴史民俗学の本を読んでいて、納得した話があったのですが、悪とは存在の過剰である、というところが、欧米の悪魔などと違うところだそうで・・・キリスト教の悪魔とは、結局「存在の欠落」であるのに反して、「過剰なるもの」は忌避され退治されるべきもの、という感覚がもともとあるようなのです。小さいものが美しく、あるいは神に近いもの、という傾向は、たとえば日本神話のスクナヒコナの神のような小さい神や、少年神信仰などにも伺えるし、今も「可愛さ」を重視する日本独特の美意識が残っていることからもうなずけるように思いますが、こういった話は実証が難しいですね。

 ともあれ、世界各地に残る巨人伝説や巨神のイメージは、日本においては生彩を欠いている、というのは確かなようです。「ダイダラボッチ」のような伝説の巨人はいますけれども。

 ただ、日本の悪、は、欧米の悪魔などとは性質が違っていて、必ずしも嫌悪のみされる対象であったわけではない、というところも、日本の倫理観が欧米のそれとはどこか違っていることに通じているのかもしれません。中世において「悪党」「悪太郎」などと呼ばれた人びとは、暴れん坊、ぐらいの、エネルギー過剰な連中、といった意味合いが先だったとか。狭い国土で四季の移り変わりや自然の脅威とうまく折り合いをつけ、環境に順応しながら稲を育てて生きてきた日本人にとって、秩序を乱す存在は悪ではあるけれども、自然に近いものにも感じられ、遠ざけつつもどこかで親しみさえ覚える相手であったのかもしれないと思います。

 あまりに大ざっぱな話になってしまいましたが、ともかく、こういうことを考えると、日本の怪獣の特異性が何となく分かってくるような気がします。サイズが大き過ぎるというだけで、考えてみれば何もしてないのに(大き過ぎるからつい建物は壊してしまうけれども)、また、見ている限り、怪獣がものを食べているシーンはほとんどなかったように思うのに、食べるひまさえ与えられずに?退治されるだけなんて、あまりにヒドイ、と感じた私の感覚はやはり相当ずれているでしょうか?

(8)ゴジラー3

 「ゴジラ」第一作に出てきた芹沢博士は、クラシックなSFやホラーものの定番スターであるマッド・サイエンティストの一人。元祖ともいえるフランケンシュタイン博士以来、一般の人には分からないような浮き世離れした研究にふけって、世俗には興味を示さず人間嫌い、ボロボロの白衣を着てぼさぼさ髪なのはそんな俗なことに構っていられないほど研究に熱中しているから、・・・というお馴染みのキャラクターです。ついでに人間嫌いになるだけの何らかの精神的トラウマを抱えていたりすればほぼ完璧。

 芹沢博士は戦争で顔に傷を負っていて、秘かにヒロインに心を寄せている。こういう絵に描いたような、いまどきはもう死語かと思われる「影のあるインテリ」のキャラクターは平田昭彦の当たり役で、怪獣映画や青春ドラマで、冷たい感じの科学者や嫌みな教頭先生といった悪役やライバル役に他の追随を許さない存在感を示していました。

 クールで端正な彼の知的な容貌は、多数派の人たちの共感を呼ぶには気難しくなじみにくい雰囲気があって、それゆえに却って主役にはなり難かったようですが、癖のある脇役や憎まれ役を律儀に、そして楽しんで演じていたように思います。

 芹沢博士の開発していたオキシジェン・デストロイヤーという武器のネーミングのあまりに素朴なセンスに吹き出しつつも、自己犠牲によるゴジラの封じ込めというラストシーンには、いつまでも哀感が残りました。怪物たるゴジラと、人々から離れ、報われることのない愛を心に秘めたまま海に沈んだ芹沢博士の組み合わせこそが、この映画の真のラブストーリーだったのではないかと思ったりもしたものでした。・・・余計な想像力を持った子供の考え過ぎの感傷かもしれませんが。



            

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